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人間は本能=感情に流されず理性的であるべき?いやそうではないという帰結

人間は本能の衝動を理性で御すべきと考えていた

私は常に、人間は本能という衝動に惑わされず理性を持ってそれを制御することで人間たり得ると思っていた。何故なら、本能の衝動に駆られたとき理性が顔を出しそれが正しいかどうか自分自身に問いを投げかけられたのにもかかわらず、その問いを無視して本能に身を任せることは、本来違和感として気がついていたはずの理性を無視するという不自然な状態になってしまうからだ。

御することは人間の本能を蔑ろにしている?

しかし最近になって、それは人間が生来に備えている本能といういわば本質のようなものを蔑ろにしているのではないかと思うようになってきた。理性によってのみ人間たり得るという考えの帰結はあまりにも偏っているのではないかと。理性がもし、人間が社会の中で馴染み合うために存在しているのであれば、私は社会性というものを強く意識していることになり、それは人間の本能とか種族性への意識が欠落していることになる。

 

私にとって人間の本能は驚異的だった

何故私がこれほどまでに理性へ偏った考え方を持つようになったのか?

それはおそらく、本能と理性では理性のほうが私にとって信頼に足るからだと思う。本能は衝動的で約束されたものではないために、コントロールが不可能なものである。本能において善悪は存在せず、仮に存在するとすれば本能に従ったか否かで善悪を問うことになるだろう。それに対して理性とは人間同士共通のルールであり善悪がはっきりしている。何故なら、理性が生まれた瞬間に人間は理性を持ってあらゆる物事をコントロールし始めるからだ。コントロールするためにルールを作り、そのルールにはしっかりとした善悪が存在する。それが今の国家というものだ。私は本能の不安定さに怯えて理性の確実性に惹かれているのだと思う。だからこそ、人間は理性をもち本能を制御すべきだと考えているのだ。何故なら本能で行動する人間が私にはコントロールのできないものであり驚異的だからだ。

人間の本能を蔑ろにする=傲慢と思うようになった

つまり、私はコントロールできないものを恐れている=支配したいという欲が意識の奥底にあるのだろう。なんて傲慢なのだろうか。傲慢という意識が芽生えたことは私にとって変化である。以前までは「本能に従う者こそ理性を蔑ろにした傲慢な人間でありもはやそれは人間たり得ない」と考えていた。今の私は「理性によって支配を望むこと(他者を自分の思想に当て込む)こそ傲慢だ」と思うようになっている。これは変化といって間違いないだろう。

理性と本能は人間の中に在る

ただ、理性によるコントロールを間違いだと考えているわけではない。今でも人間にとって理性は重要なものだと考えているし自分自身そのように努めているつもりだ。変わったのは、理性も本能も人間には存在しているからどちらも蔑ろにすべきではないと考えるようになったことだ。理性なしでは人間は社会を形成できないし、本能は元から備わっているので今更無くすこともできない。そのような考えに至った。

一応、これでこの記事の帰結とします。これ以降の文章についてはあとがきのようなものだと思ってください。今回の記事の主題とは少し離れています。

国家とは人間の理性である

人間の本能は人間の理性によって創り出された国家の力によって制限される。例えば、店頭に並ぶリンゴを手に入れるためにはお金を払わなければいけないというルールに対して、腹が減ったからおいしそうだからという本能に従いお金を払わず食べれば、金銭を支払わずにリンゴを手に入れた=ルールを破ったということで、ルールによって罰せられる。ここで注視したいのは、本能を優先してリンゴを手に入れたことが罰せられるのではないということ。あくまでもルールを破ったことが悪いことなのであって、本能に流されたことが悪いのではない。そしてそのルールとは、まさに国家なのであってその国家は人間の理性によって作り出されたものなのだ。つまり、国家とは人間の理性であるといえる。

 

行動結果のみが国家によって制限される

今の例えから分かることは、国家によって罰せられるのは本能ではなく行動結果であり、それがルールに沿っていたかどうかのみで判断される。その行動結果に至らせた意志については、ルールで罰せられることはない。何故なら、それは目に見えないしそれ自体は誰かを不幸に陥れているわけではないからだ。逆にいえば、理性に基づいた意志によって行動した場合でも、ルールに沿っていなければ罰せられる。国家とは、人間にとって最大多数の幸福を生み出すように作られているべきであって、その最大多数の幸福の取り決めが絶えず議論されてきた。取り決めとは、つまりルールのことである。金銭を払わずにお店のリンゴを食べることは、最大多数の幸福を目指すうえで間違っていると判断されるために、ルールによって制限されているわけだ。つまり、本能そのものを直接的に縛っているわけではなく、行動結果のみ勘案材料として用いられてるわけなのだから、私が本能という感情に流されるのはいけないことだと考えていたことは今回の記事の結論としては間違いなのである。

ソクラテスの弁明・クリトンが参考になるのでおすすめです。文章も口語体で読みやすく速ければ1日で読み終わると思います。

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

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 恋愛についての本能も書いています

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