25歳のフリーター日誌。森に逃げたくなるときがある
僕はたまに、全てを捨て去って森に逃げ込みたくなる瞬間がある。
なぜ森なのかは自分でも分からないが、おそらく人のいないところに行きたいのだと思う。
だから、海でもいいし山でもいいのかもしれない。
でも、まず初めに浮かぶのは森だ。
木々の隙間から優しい木漏れ日が燦々と降り注ぎ、すーっと息を吸えばひんやりとした空気が肺の中に流れ込む。
森を見上げると、逆光のせいで瞳に暗く映り込む緑がある。
きっと心が落ち着くんだろう。
だから僕は森をイメージするのかもしれない。
僕が捨てたくなるものは何なのだろうか?
なぜ、わざわざ捨ててから森に行きたくなるのだろうか?
捨てるのは多分、所持したままじゃ心が落ち着かないからだと思う。
そして、捨てたくなるものは、きっと社会の中での自分だ。
家族と接するときの自分、働くときの自分、友達と話しているときの自分、パートナーと一緒にいるときの自分。
全部、人間が作った社会における自分だ。
社会をコミュニティと言い換えても間違いではない。
コミュニティの中では、各々に向けて役割が割り振られる。
まるで劇の配役を決められるように。
家族の中で僕は孫だし、彼女の中で僕は彼氏。
あるコミュニティでは孫でありながら、あるコミュニティでは彼氏である。
僕自身のからだは何も変わっちゃいないけど、僕に与えられる役割はその都度で違うってことだ。
すごい早さでコミュニティを行ったりきたりしているから、演じる役目がその度に変わって忙しくなる。
午前中は孫で、午後は友達、そして夜は彼氏になるなんていうこともある。
僕が森に逃げたくなるのは、この忙しさのせいなのかもしれないし、与えられる役割に不満があるからなのかもしれない。
実際、コミュニティにおいて人間に与えられる役割というのは複雑で、多くの人がそれを言葉で説明できない。
でも、皆んな、感覚では分かっているんだ。
例えば、場を盛り上げる人がいたとする。
盛り上げる人が静かだったら、それに気がついた人は「なんで静かなんだろう?」と思うだろう。
これは直感的なものだ。
そして、この直感のレッテルこそが、コミュニティにおける役割を生み出している。
つまり、「なぜ静かなのだろう?」と疑問に思うのは、相手に対して「あなたの役割は場を盛り上げることなのに、なぜ静かなの?」と直感で感じているからだ。
ここに悪意があるかどうかは問題ではない。
あからさまな悪意なんて、法が裁いてくれるから気にしなくてもいい。
僕が怖いなぁと思うのは、直感によるレッテルが役割を生み出し、それがどんどんコミュニティで広まっていくことだ。
広まるにつれて、どんどん息苦しくなってくる。
そしていつしか、その息苦しさから逃げたくなって、コミュニティで貼られた直感のレッテルを剥がすために行動を始める。
その行動のひとつが、森に逃げるってことなのだろう。
森に逃げること以外にも、直接その息苦しいという思いをぶちまけてレッテルを塗りかえようとすることもあるし、ストレートにそのコミュニティと絶縁することもある。
絶縁するというのは、会社を辞める・彼女と別れる・家から出て行くなど。僕にとって選んだ選択肢が有益かどうかは分からない。
ただ、息苦しいままでいることが辛いのは確かだ。
だったら、有益かどうかは分からなくても、最低でも辛いことからは脱したいので、何か行動を起こすのがいいんじゃないだろうか。