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25歳のフリーター日誌。誕生日について思うことをエッセイ的に

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かなり前のことだが、僕は25歳の誕生日を迎えた。

四半世紀を生きることができたというわけだ。

ただ、誕生日を迎えたからといって何かが変わるわけではない。

年齢という記号が24から25に変化するだけで、記号の中身である私は何も変わっちゃいない。

25歳になったからといって、何か目標を立てようとも思わない。

今までの誕生日では、その歳の目標みたいなものを立てたりイメージしたりしていたけど、それも虚しいような気がしてきたからだ。

達成された試しがないし、楽しいのは目標を立てているときだけで、その後は目標を忘れるか、何故そんな目標を立ててしまったんだと後悔するかの二択。

それに、単なる記号に惑わされてしまうのは、腹立たしくもある。

でも、誕生日を悲観的に捉えているわけではない。

こんな言い草では、誕生日で浮かれている人たちを揶揄する偏屈な人間と思われてしまうかもしれないが、そうではない。

誕生日は楽しいものだ。

皆んながおめでとうといってくれるし、時にはプレゼントまで貰える。

欲しくないものを受け取ったときには苦しい愛想笑いを浮かべなくてはいけないものの、プレゼントの中身は関係なしにその気持ちが嬉しいものだ。

誕生日そのものは、別になんの力もない。

当人を変えてくれるわけでもないし、周囲が誕生日を理由に特別な人間に仕立てあげてくれるわけでもない。

何故なら、誕生日は誰にでも1年に一度必ず訪れるからだ。

誕生日は何も特別じゃない。子供も大人もその日を受け取ることができる。

誕生日で変わるものといえば年齢という記号くらいだが、その記号に対して副次的に世間の目が変わることは当然のように起こる。

年齢という記号は社会において強烈な意味を持っていて、30歳無職と22歳無職では随分と印象が違う。

誕生日は現実になんの変化ももたらさないけど(力が強くなったり、頭が良くなったり)、社会からの見られ方だけは変えてしまうということだ。

まあ、これは仕方のないことである。

人間は、あらゆるものに記号をつけることによって区別をつけ、社会を形成しそれを共有してきた。

それが言葉というものだし、人間が社会を形成するうえで不可欠なものである。

話が大きくなってしまったので、誕生日の話題に戻そう。

僕は、誕生日が好きだ。

それが副次的に嫌な効果をもたらすとしても、それそのものは好きである。

誕生日を理由に家族と過ごせるし、誕生日を理由にいつもより楽しく会話ができる。

人は、理由があったほうが強くいられる。

理由がない、理由が分からない状態で、正気は保っていられないものだ。

だから、理由を作ってくれる誕生日は好きだ。